北久保弘之vs.江面久 Round - 1
北久保監督、いきなり意識不明!?
北久保弘之 I.G が制作して、寺田克也氏がキャラクターデザインをして、黄瀬和哉氏が作画監督をやって、江面さんに画面設計を委ねて、そして多くの優秀なスタッフ達が協力してくれれば、そりゃもう、凄い作品が仕上がるに決まってるですよ。
(と、このすさまじく圧力ある言葉を言い放ったのち、普段は低姿勢で、周囲に気を配りまくるが、その実、他人が背後にまわりこまぬよう目を光らせる、したたか監督・北久保弘之、泡ふいてぶっ倒れる。ま、この監督の場合、病弱モードすら、得意技のひとつだから、仕方ない。
倒れた監督は、しばらくうっちゃって、その分、このクワセモノ監督をして、「BLOOD」画面設計の責任をゆだねさせた男・江面久の口を割らせてやる!)
江面久 これはね、小夜( SAYA )の情景なんですよ。
(小夜( SAYA )・・・もちろん、「BLOOD」のヒロイン。そういえば、江面久は、以前、「BLOOD」を「小夜のアイドル映画」と表現したことがあったっけ・・・)
江面 「小夜のアイドル映画」だって言ったのは、小夜自身をこの世界で全部表現したかったからなんですよね。「アイドル映画」っていうのは、かなりイジワルな言葉を使ってますけども。でも、一人の主演女優がいて、その女優の魅力を引き出す映画っていうのは、だいたい「アイドル映画」っていう言い方をするじゃないですか。だから、そういった意味で、アイドル映画って言ったわけです。まさに、「BLOOD」っていうのは、小夜を表現するための映画・・・、これは小夜の映画ですからね。小夜のポートレイトですからね。小夜のポートレイトを、普通の人間の目を通して、普通すぎる人間の保健医の目を通して、見たっていう。
で、保健医っていうのは、観客の代弁者ですから。保険医の心情と観客の心情とが、画面にシンクロするように、煽っていくわけですよね。
(それが「画面設計」?)
江面 画面設計って実は、「アルプスの少女ハイジ」とかで、宮崎駿さんがこの言葉を使ってるんですよ。ただ宮崎さんのは、動きとか、ギミックとかというところ込みの画面設計なんですけど、私は、どっちかというと、ギミックでも、大道具のギミックではなくて、光とか影とか画面の雰囲気とかの、陰影のギミックの方に、重点を置いていてですね。だから、メカがどうあって、でっかいロボットのおなかがあくと何があってとか、高―いお城みたいなところにはどんな階段があって、っていうような、設定は、他の人に作ってもらって、それをどのようにして見せるかっていう。
実写でいうところの撮影監督みたいなところなんですよ。監督が横にいて、私がずっとファインダーのぞいてて、照明だとか、大道具さんとか、衣装さんとか、いろんなスタッフに、「もっと光あてて」、「あ、もうちょっと寄って」とか、撮影助手かなんかに、「カメラちょっと動かして」、「そこは、ひいて望遠で」って。被写体の設定は既にあって、それをどのようにフィルムに定着させるかっていう部分の設計なんですよね。
(その画面のイメージをあらかじめ各スタッフと共有するために描きこまれるのが、イメージボード。江面久が指揮をし、美術監督の竹田悠介氏、色指定の井上佳津枝女史、撮影の佐久間未希女史達と共同して作成したイメージボードの総枚数、なんと、507枚! 本編50分の映画に、507枚のイメージボード・・・! しかもその見事な仕上がり・・・!)
江面 保険医のシーンの拡大イメージへ んっとね、一番わかりやすいのは、コレだな。
この保険医の横顔の歩いてるやつとかはそうなんですけど。ココの光ありますよね、ココの光をこうやって、タタタタタタって保健医が歩いてくるんですよ、その下を。その時に、直接的な向こうの光と、保健医の手前から来るであろう光っていうのを考えて、画面にどのような明暗の変化と色の変化があるのかっていうのを、作るんですよ。
タッタッタッタッタッタと歩いて来て、ワっと光が放って、そのあと、保健医は影の中に入るけど、ちょっとオフセット下げたところで、まだ光は残ってて、保健医は光から外れて暗くなるけど、画面全体は、バァと光るようになり、ガッと影の中に入るとか。こういう見せ方のひとつひとつなんですよ。
このシーンの、このカットの中だけでいっても、どういうタイミングで歩いて来るのか。まず暗いですよね。暗い、暗い、明るい、フワッとフレアが入ってきて、暗く。で、ヒューってまた暗くなっていくっていう。カットの中での時間軸も考えますし、あとこのカットの前にどのようなカットがあって、どういうインパクトで来るのかっていうのも考えます。
(画面の設計にとどまらない・・・、観る側のココロの動きまで、設計され尽くされてる・・・。しかも、それは、ワンシーンだけのことじゃなくて・・・)
江面 ストーリー全体を通しての色の抑揚っていうか、緩急も、考えますよね。それは監督との長い、凄いやりとりの中で決めていくんですけどね。
尺全体で、最初、彩度の低い、ほとんど白黒にちょこっとだけ色が入ったような世界があって、次にワンポイントだけ色が入ってるような画面。それから、たまに赤い血の色がちょこっと入り、また、地味な画面。今度はパトライトの赤いライトのシーンがあって、ぽっと入ってきた
ダンスシーンの拡大イメージへ 赤が、どんどん強さを増していって、ダンスシーンになると、さらに赤のボルテージが上がりっぱなしになって、バンパイアの顔のアップの時に、パンッ! 赤が炸裂するんですよ。
地味ぃ―な感じの彩度の低いちょっと陰湿な場面は、より陰湿に、で、赤く膨張して、零れ落ちちゃうくらいの、赤一色っていうやつは、さらに破裂するぐらいの赤一色に。全体を通しての高低差をボードに設計していくんですね。でも、ちょっと、ツメが甘いんですよ。その時はこれ以上やると怖いかなと思ってたんですけど、もっとやるべきだったなと、今は思ってますけどね。
(赤の破裂・・・。「BLOOD」にとっての「赤」とは?)
江面 彩度のない世界と赤の世界なんですよね。
ま、そうですね、芸がないっていわれちゃうと、困っちゃうんだけど、「BLOOD」だから赤にしたわけじゃないんですよ。短絡的に、楽天的に赤を選んだわけじゃなくって、やっぱり・・・、小夜が・・・、ラスト近くの、小夜のあのシーン・・・
(あのシーン・・・。詳しくは、言えない。というよりむしろ、描写不可能。 文字が追いつくビジュアルじゃない)
江面 あのシーンっていうのは、「血」ですからね・・・。赤い血ですから。やっぱり赤っていうのをちょっと大切にしたかった。赤っていうのをよりどころにしたかったっていう。ま、赤っていうのは、たまたま血の色なんですけどね。血が赤いから、赤にしたんじゃなくて、赤っていう何かイメージ学的なものがあって・・・。燃えてる炎だとか、パトライトとか、みんな、そういった意味じゃ、正直に話すと、血のメタファなんですよね。
ただそれをもっとねぇ・・・ちょっと若気のいたりって感じですよ。もっともっといけるはずなんですよ。もっと、深刻に、見た人たちを深刻にさせるぐらいイケルハズなんだけど・・・ちょっとライト(軽め)でしたね。
(ライトなんて、とんでもない。ビビりまくりのエグられまくり。謙遜言葉に油断は禁物)
江面 絵っていうのは、自由なわけで、全部ドラマツルギーに対して、忠実になれるんですよ。だから、小夜のあのシーンにしても・・・。小夜がいる場所はどうして其処だったのか・・・。その時、光は、どうして、其の暗さだったのか・・・。それは、そうでなくてはならなかったからなんですよ。それ以外では駄目だったんです。ドラマが呼んでたんですよ、そのシーンをね。ドラマがね。そういうことを全部、設計していくわけですね。
(このあとの江面久の説明は深い・・・。全体を通しての光の配分、ワンシーンワンシーンの中に収められた光の切り取り方、それらすべてが、ただの視覚的効果でなく、いかに小夜という存在の 本質を浮き彫りにし、いかにその核心をこっそり滑り込ませているか、というのが、ようく、わかる・・・。が、その説明、ここで明かすと、まだ白目むいたままの監督に殺されそうなので、いずれ、公開の暁にたっぷりと・・・)
江面 演出とか、作画監督とか、私のような画面設計の役職の人間はですね、キャラクターを好きにならないと描けないんですよ。キャラが死にますからね。みんな照れくさくって、そういう言葉は使わないけど、まあ、あの、移入しないと描けないのは間違いないですね。
小夜以外も、みんな、いいキャラクターそろってますよね。保険医、ディビッド、ルイス、みんな好きですからね。ディビッドとルイス特に好きですね。あのふたりの、こんなちっちゃい背の、ふたりの肩ぐらい、肩以下しかないような、女の子にびくびくしながらついて行ってるっていう。あんな大男たちが、っていうのがね、なんか、かわいくってしょうがないんですよ。本人たち、すごい一生懸命ですからね。一生懸命一生懸命、小夜の気にふれないように・・・。小夜にどんどん任務を遂行させていかなきゃいけない立場なんだけど、強いことを言って、いざ喧嘩した時に、譲歩するのは、必ず、ルイスとディビッド側なんで、そこらへんがかわいくて、しょうがないんですよね。ルイスとか、ほんと可愛いと思いますよね。なんか、いい親父が可愛いなと思って。
(そういや、プロダクションアイジーのホームページ「人狼」スタッフインタビューで、「IG はおじさんキャラ製造工場」発言があったっけ。・・・そうなのか、アイジー。親父が好きなのか、あいじー)
江面 押井さんの作品もそうだけど、キャラクターとかがもう、まるで生きてるようなかんじ、パーソナル、個性をもっていますから。とりあえずで描いて、とりあえずで納品されたような作品のキャラクターが生きてるように感じないっていうのは、思い入れしてくれる量が少ないからですよね。そういった意味じゃ、小夜っていうのは、難しいですね。原画の人たちまでちゃんと移入してれてたかどうか・・・。立ち上がるスピード、走ってるスピード、その手の振り方ひとつにも、現れるものですから、その思い入れっていうのは。そこらへんはもしかしたら、ちょっと、みんな、引いちゃってたかもしれないですね。あの、小夜がこういう人間だから。だって、親しい感じ、話し掛けようって気にならないじゃないですか。明るくって、たとえばそうですね、楽しくって、ちょっと母親のような部分があったり、妹のような部分があったり、異性のミステリアスな部分があったり、で、かわいくて、笑顔がはしゃいでたりっていう、そういう部分ていうのはあまり見せないから、近寄りがたいんですよ。
黄瀬さんとか、北久保さんとかそういうレベルでは、そこらへんは理解して描いてたんですけど。
(・・・でも、ひとりでは、決して作れないのが、アニメ制作の性。出来るものなら、全部ひとりで作りたいって、アニメーターとしての「業」、あるんじゃないのか)
江面 それはいつもあるんですよ。だから、ボードに関しても、メインスタッフの人達に手伝ってもらっていますけど、最終的に私がチェックしましたし。ただ、原画とか、いろんなレベルになってくると、一人じゃやりきれないんで。それは、もう、はなっから駄目かなと思ってあきらめてて。
ここの部分を逃すと目指す方向がずれるっていう、その瞬間があるじゃないですか、その部分は自分で抑えとくようにするんですよ。そこの部分だけは、私がやるって。やりたいことが、共有できてる人たちには、その中でも分配するんですけど。私を中心にした一握りの人間が、中心の核の部分を抑えるわけですね。
そういった意味では、原画っていうのは、ずいぶん難しいですよね。演技そのものをつかさどるから。うん、黄瀬さんもだから、描き始めたら、「全部直しちゃうからな・・・」くらいやっちゃうんですけど・・・。黄瀬さんも自分で全部やりたいとは思うでしょうね。だけど、もうそれは、無理だって知ってるから。それっていうのは、服のシワの線一本すらもやっぱり、譲れないんですよ。うん。このリズム、この線の動き。シワのくしゃくしゃくしゃっていう、そのリズムとかですね。それが時間軸上でどうやって動くっていう部分は、こだわろうと思えば、いくらでも、こだわれるし。もし、自分で全部出来るんだったら、やってみたいって、みんな思ってるはずなんだけど、だけど、それは物理的に不可能だから。
そういった意味じゃ、我々はアーティストっていうよりは、えっとね、職人なんですよね。時間を、自分がもういいって満足するまで掛けられないっていう状況の中で仕事をしている、職人ではあるんですよ。でも、その職人の部分には、みんな、誇りを感じてますし。時間内でベストを尽くすってところに、誇りを感じてますから。決められたスケジュールの中で、自分のこだわってる部分をどれだけ収められるかってところに火花を散らすわけですよね。で、それが画面で表現、動いた時に、救われたと思うわけですよね。ほくそ笑むわけですよ。
(江面久、にこにこしているが、やっぱり、怖イ。まさに設計段階から主導権を発揮し、ゼロ地点から全てを見越しているかのような男。それでも、あるのだろうか? その予想から零れ落ちて、自分自身をも喜ばせてしまうような、出来事っていうのが・・・?)
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北久保監督、いきなり意識不明!?
北久保弘之vs.江面久 Round - 1

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