晴明の迅速且つ的確な処置によって頼子は一命を取り留めることに成功した。しかし、その代償はあまりにも大きく、醜い傷跡と共に一生飾りのままの右腕を携えることとなった。
剥ぎ取られ、山積みにされた頼子の唐衣からはまだかすかに芥子香が薫っている。頼子の裸を隠すために晴明と経基は上半身裸になっているが、晴明の体を彩る斑模様の痣は痛々しかった。
 「…すまないことをした」
施術が終わり、一息ついた晴明に経基は声をかけたが、それが晴明に向けられたものなのか、それとも目を閉じたまま身じろぎ一つしない頼子に向けられたものなのかは発声した本人にすら判らなかった。
何故自分は太刀を抜き頼子の体を貫いたのか、自身ですら説明できない。その曖昧さが不安感となって経基の心に重くのしかかった。
沈黙を破ったのは晴明の溜息だった。
 「…鬱陶しい。帝の血に連なる者が何と女々しい事よ。己が心の脆弱さを露呈したばかりか、しでかした軽率な行動の責任にも耐えきれんとはな。経基王は帝になるには優しすぎますな」
辛辣な言葉は今の経基にとって救いでもあったが【優しい】とは極上の皮肉だった。
 「上に立つ者とは、時に何物をも犠牲にする覚悟が必要だと、知らないわけでもありますまいに」
反論の余地がなかった。晴明の言っていることは正論である上に、経基にはその厳しさから逃げ出したという自覚がある。何を言っても言い訳にしかならないなら、口を噤んでいた方がましだ。
晴明は頼子の体温の消えた唐衣を抱え上げると鴨川の流れに向かった。斯様に危険なものは破棄してしまうに越したことはない。
 「芥子というものは、まだ人には早すぎる代物です。…まぁ、訓練すれば巧く耐性もできますが……試してみますか」
晴明の背中からは真意を汲み取ることが出来なかった。試されているのか、挑発されているだけなのか…。何も判らない中でしかし、たった一つ確かなものと確信したことがあった。
 (安倍晴明は都にとって、この国にとって必要な男だ。……私などと違って…)
不思議と悔しいとは思えなかった。今までの短い人生の中で、自分自身に意義を見出せなかった経基は常に自分を卑下し続けていた。皇位にも己自身にすら執着せず、この先何をして良いか解らない、そんな日々を繰り返していたのだ。
 『………』
その音は唐衣を川に投げ入れた水飛沫に掻き消されたはずであった。
白い影が靄のかかった殺意と共に経基の視界の端を流れ、晴明の心の臓を狙った。その手に持った白銀の煌めきは経基の太刀に他ならない。
晴明の反応が遅れたのは本人の油断もあるが、頼子の放つ無機質な殺意のせいでもあった。空中に蔓延している滅びを望む気配と同質の害意。
肉に食い込む凶悪な刃が、血を啜れた歓喜に煌めいた。
限界を超える痛みは熱さしか感じない。驚いた脳内物質が有り難くもない現象を引き起こし、感覚を過激なほど鋭敏に、体感時間を飽きるほどに遅くする。主の心を砕こうと肉体が謀反を起こしているようにも思える。
 「…かはっ」
血塊が喉を逆流し、晴明と経基、頼子の眼前で赤い赤い曼珠沙華の花弁を儚く散らせた。

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