『力道山』

「日本プロレスの父」と称される、日本一偉大なプロレスラーである。
 大正13年、長崎県出身(ということになっているが実際は日本占領下の朝鮮半島出身)。相撲の二所ノ関部屋に入門。猛烈な突っ張りに物を言わせ、1944年5月幕下優勝、十両3場所で入幕。入幕2場所目の1947年6月場所、得意の突っ張りや吊りで活躍し、前頭8枚目で9勝1敗の成績をおさめる。羽黒山、東富士、前田山とともに4人の優勝決定戦に出場するも、羽黒山にうっちゃられて惜敗。1948年5月場所に8勝3敗で殊勲賞を受賞し、10月場所には小結、1949年5月場所は関脇に進むが、肺臓ジストマのため3勝12敗に終わる。しかし、1950年5月場所には関脇に返り咲き、連続して勝ち越して見事カムバックを果たした。しかし、9月場所番付発表の日、自らマゲを切って廃業。番付の不満と師匠との金銭上のトラブルが原因とされ、さらに誤解もあったと言われているが、真相は定かではない。ただ番付については、関脇で勝ち越したものの、8勝7敗で大関に昇進できるものではない。新聞社は「肺臓ジストマが完治しないため」と報道。そのまま続けていれば、大関昇進も確実視されていた。ただ、力道山は朝鮮人であり、その差別から大関にはなれないと言われていたことも事実。廃業後、一旦は復帰を願い出たが許されず。176cm、116kgの体格から張り手を交えての突っ張り、上手投げは強く、その張り手で脳震盪をおこす力士が少なくなかった。横綱東富士を30数発、張って張って張りまくり、ついに力尽きて敗れた一番は語り草となっている。
 1951年10月にプロレスラーに転向。来日中のプロレスラー・ハロルド坂田と出会い、一行のトレーニングに加わって、ボビー・ブランズとの初試合に出場する。この頃は、まだ庶民が気軽に買えるほどテレビは安くはなかった。「街頭テレビ時代」と呼ばれ、駅前広場などにテレビ局提供のテレビ受像機が設置され、人々はそこに集まって中継を観るのが常であった。1954年2月、日本テレビは「力道山・木村対シャープ兄弟」のプロレスを中継。1957年10月「NWA世界選手権ルーテーズ対力道山」は驚異のテレビ視聴率87%を記録する。外人レスラーを空手チョップで倒す力道山の姿に、国民は熱狂した。外人レスラーがいかに反則技を繰り出そうと、力道山は正々堂々と臨み、決して反則をしなかった。こうした演出がさらに人気を呼び、力道山は国民的英雄の地位を不動のものとしたのである。主なタイトルは、初代日本ヘビー級王者、初代アジアヘビー級王者、インタナショナル選手権王者など。
 1963年11月23日、通信衛星による日米間のテレビ宇宙中継が成功。アメリカからの第一報は、ケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースであった。同年12月8日午後11時10分ごろ、力道山こと百田(ももた)光浩は、東京・赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、住吉連合系暴力団の大日本興業組員・村田勝志(当時24歳)に襲われ、登山ナイフで腹を刺された。15日、腹膜炎から腸閉塞を併発し死亡。享年39歳であった(41歳説もあり)。