1時限
栄光の押井塾・・・

1996年5月9日。
PRODUCTION I . G の奥深く、光の差さない会議室に、うら若き男たちが集められた。
彼らの前に、立ちはだかるひとりの男。その胸には、犬。
そう、その男こそ、誰あろう、「攻殻機動隊」で世界中のビジュアル・クリエイターを虜にした、
やたら犬好きなおじさん。
いやいや! えっと、とてつもなく斬新な演出をぽこぽこ生み出す映像業界の
アジテーター・押井守監督。
「マトリックス」を作ったウォシャウスキー兄弟だって、「踊る大捜査線」の本広克行監督だって、
押井氏の映像にガツンとやられたクチだってことは、もう当たり前に有名な話。
で、その押井氏とアイジーの若手(たぶん)精鋭部隊がその日スタートさせたものこそが、「押井塾」。
「BLOOD THE LAST VAMPIRE」を生みだした灼熱地獄の梁山泊。
さあ、これまで、多くを語られる事のなかった「押井塾」の正体・・・
ってゆーかさ、要は、何してたの? って、話を「BLOOD―」誕生の立役者、
神山健治氏と藤咲淳一氏のお二人からたっぷり聞き出しましょう、そうしましょうっと。

藤咲 押井塾のなりたちって・・・。あれ、押井さんが、発起人?
神山 発起人は、押井さんだと思いますね。演出・監督としてやって来た自分のキャリアの中で、人を育てたことがないって、いうことで。
藤咲 あ、そうか。
神山 ま、ヒマだし、アイジーに恩返しでもするか、って(笑)
藤咲 あー、言ってたな。(笑)
神山 ま、そういう企画。
・・・がくっ。なんか、めっちゃ、テキトーそうな・・・?
藤咲 そ。
期間も、次の作品が始まるまでの半年か一年かわかんないけどって。
神山 企画を実現させていくためのスキルを上げる訓練の場として始まったんだよね。
藤咲 最初は、6 人、7 人くらい?
神山 一番最初に集められたのは、7 人。でも、1 回目って、藤咲さん、いなかったですよね。
藤咲 いなかったですね。
神山 2 回目の企画書を持ってくる回から?
藤咲 うん。あの時、押井塾が動くっていう噂を聞いて、場所もたまたま近かったから、石川さん(プロダクションアイジー社長・石川光久氏)に俺やってみたいから、って。アニメーションとゲームじゃ畑がちがうけど、企画はなんか通じる部分あんのかなってところで受けたのが、最初だったんですよ。
神山 メンバーは、石川さんが選んだんだったかな? プロデューサーになりたいヤツ。演出になりたいヤツ。基本的には、新人がメインだったんですよね。で、新人だけじゃ、あまりにも・・・、ってことで、中堅どころの演出を入れようって、俺ともうひとり。
藤咲 実地踏んでるのは、その 2 人。で、残りは、その当初新人だった制作の方が 4 人・・・?
神山 最初は、うん。4 人。で、7 人。
藤咲 7 人ですね。後から、入った俺も入れて。
押井守と 7 人の生徒たち。イメージからすると、もう、押井さんが、2 時間喋る喋る、7 人うなずくうなずくって感じの大熱弁・大講義・・・?
藤咲 いや、全然違う。
神山 一応、講義らしいのは、ホントに最初の趣旨説明だけで。あとはもう、いきなり実戦。
藤咲 実戦、うん。
神山 次の週までに、企画書を作ってくるっていう課題が出されて。
藤咲 一週間に一本、企画書を書いてくるようにと。
神山 企画書をどういう風に書けっていうのも、全くなくって。とにかく、書いて来い。
藤咲 「押井塾」っていうのは、映画の制作理論とかそういうのじゃなくて、あくまでも企画を通すための企画書をどう書くか、どう体裁をまとめるか、そもそも企画とはなんぞや、というコトを。
神山 まだ、企画書自体、みんな、書いたこともないんですよね。だから、企画書って、なんぞやって、コトを。どうやったら通るのか、通りやすくなるのか、ってコトを教えると。
藤咲 押井さんも、「うる星やつら」の後、3 年間仕事がなかった時期があって。噂じゃ、その時、一日に一個企画書を書いてたと・・・。
神山 その時感じたこととして。明日の朝までに書いてくれば通るっていうチャンスがあった時に、書いてこられなければ、それすらなくなるのだ、ということを、すごい強調してましたよね。
藤咲 だからタマは用意しとけっていう。タマの数があれば、その時、それにあうモノを選んで出していけばいいわけだし。その時通らなくても、あとで通るかもしれない、って、すごく言ってたんですよ。
神山 それで、一週間に一本テーマを与えられて。
藤咲 「押井塾」は基本的に、仕事とは認められてなかったから、企画書を書くのも、自分の業務に支障をきたさない範囲で、あくまでも、プライベートでやれと。
神山 だから、みんな土・日つぶして、徹夜で書き上げてましたね。
藤咲 いきなりテーマを出されて、調べ物から始めて、それも、短いスパンで。しかも、仕事じゃない。プライベートを全部それに注ぎ込んでも、当時は、結局、表層的な部分だけしか追えなかったですね。今なら、多分・・・。
神山 だいぶね。
藤咲 こなれてきたっていうか。いろいろ酸いも甘いも知ってきたから。その頃は、ホントに、そのテーマを追っかけるだけで、一週間終わっちゃう。
神山 うん・・・。
藤咲 だから、そこに自分のやりたいものを乗っけようと思ったら、もう前々から、用意しとかなきゃ、ダメなんだなって。
神山 初回の提出の時は、手書きってヤツもいましたからね。
藤咲 で、押井さんが、人に見せるんだから、最低限ワープロは使え、って。
神山 ワープロは買うように、と。持ってなかったら、買うようにっていうのが、まず、第一回目のお言葉でしたね。(笑)
藤咲 あと、ペライチはやめろっていうのがあったですね。5 ページくらいでまとめて、表紙、前文、・・・前文つけたの神山さんが最初だったんですよ。当時、体裁として一番、まとまってたのは神山さんのだったんで。で、それがなんか、ひとつのスタイルになっていっちゃって。
神山 キャッチコピーみたいなのは、1 ページ目に短い文で入れてっていうのが、なんか、押井塾の企画書のフォーマットになっちゃったですね。あとは、絵。
藤咲 うん。
神山 アニメの企画書なんだから、キャラクターデザインのイメージはつけろと。
藤咲 CAPTAIN 俺なんかはゲームの人間で、アニメの人脈がないから、自分で描いてましたけど。

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「人脈」活かせる他の方が、誰に描いてもらったかというと・・・! なんと、「人狼」監督・沖浦啓之氏(!)、同じく「人狼」作画監督・西尾鉄也氏(!)、そして、「BLOOD THE LAST VAMPIRE」作画監督・黄瀬和哉氏(!!)だったりするのだ! 仕事でお願いするのも、タイヘンな人たちばっかりじゃないかぁっ!
藤咲 企画する上で、人に描いてもらうのも、その人のテクニックだって言ってましたね。メシ一回くらいで、描いてくれるような人脈を作っておけって。
神山 それも、企画を決めていく上での、大事な要素だってね。
藤咲 神山さんも自分でも描いてたけど、西尾さんと組んでたりもしてたですよね。
神山 狼犬サーロスうん。
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すごい、贅沢すぎる。日ごろ培う人脈とゆーのは、コアイ! が、覚えておこう。まだその人脈をしっかり培う前に、いきなり、大アニメーター黄瀬氏に、いわば「塾の宿題」のキャラクターデザインを気軽に「発注」してしまった新人制作マンのその後がどうなったか・・・。
神山 恐れをしらない。それが良さなんでしょうけどね、新人の。でも、それがイカに恐ろしいことなのかというのを、廻りに散々言われて、シュンとなっちゃったっていうね。そういうもんですよ。(笑)



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