煌々と蒼銀の光を放っていた月はその姿を厚い雲の上に隠し、天下は大粒の雨にうたれた。
 「馬鹿な…。今宵雨など降ろうはずもない」
その夜の雲は、頼子自身が呼び寄せたものであり、雨気など一滴とて孕んでいようはずがなかった。頼子の言はこうした事象の裏打ちはあってのことだ。しかし、現実は斯くも儚く、童女の心を押し流してしまう。
朱雀門の前で頼子は強く唇を噛み締め、一旦退く事を決意した。引き際を心得ていると言い換えても良い。
 「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめん」
どこからか聞こえ来る詠歌に頼子は歩を弛め、周囲を見回した。月明かりすら失われた重い闇の中、浮かび上がったの妖艶な色香の青年であった。雨で幾筋かの黒髪が頬に張り付き、晴明の美しさを神域にまで高めている。
晴明と頼子。二人の人成らざる領域の住人は互いに歩を止め、見つめ合った。方や、何事にも動じない冷めたきった瞳で。方や、怨念と憎悪に燃え盛る瞳で。
 「雨を呼んだは御主か」
 「我は唯、先人の知恵を借りたまでよ」
頼子は大火に相応しい日を占い、唾棄すべき藤原に取り入ってまでも陰陽寮と兵部省を抑えたというのに、全ては眼前の青年の一句によって台無しにされたのだ。周到に編み上げた綾を事も無げに切り裂かれたその恨みは尋常ではなかった。
 「貴様も藤原の犬かっ。この乱れに乱れた都を守るというのかっ。我の恨みの一欠片でも喰らいおれっ」
魂から上げられた叫びに頼子の肉体は四散しそうな勢いだったが、対する晴明はその身が透けて向こう側が見えそうなほど穏やかに佇んでいた。
 「世の中は 夢かうつつか うつつとも 夢とも知らず ありてなければ……何を恨むか知らないが、下らない執着などで火を放たれては迷惑この上ないな」
自身、先日の屈辱を返すためだけに頼子を追い詰めているのだが、その事実はこの際、棚に上げても許されるであろう。
晴明は侮蔑の笑みで頼子を…否、頼子の背後に潜む者を挑発した。普段から全ての者を見下すきらいのある晴明だが、この時ばかりは心底、相手のことを蔑んでいた。
 「…屑め」
より一層激しさを増した豪雨が、全てのものを押し潰そうと降り注いだ。闇は更に濃くなり、一寸先すら見通すことが出来なくなっていた。
 「痛み分けと言うには…一方的にこちらが被害を被っただけか」
頼子の気配が消失したことを確認した晴明は誰に言うとなしに洩らした。
感覚が告げるのだ。頼子の裡に忍び込んだ者は恐ろしい怨霊であると。晴明が如何に神仙の域に達していようと、その調伏は容易ではないと。
晴明が呼び寄せ、大火を鎮めた大雨はその後もおさまらず、四昼夜降り続け、鴨川を氾濫へと導いた。

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