頼光が晴明と始めて出会った深雪の夜から、まもなく一年が経とうとしていた。その年は前年に比すると暖かで、積雪も浅かったが、それでも他の地域よりは寒さが厳しいのは否めない。
       『 狩…狩… 』
素足を踝まで雪の中に埋もれさせ、頼光は太刀で空を斬っていた。寒さで全身に鳥肌が立っているが、既に精神が感覚を凌駕し、知覚される苦痛を押さえ込んでいた。
       『 狩… 』
鋭く息を吐きながら太刀を振り下ろし、止め、深く冷気を取り込みながらゆっくりと両腕を持ち上げ、再び止める。その単調な繰り返しが朝から数百、数千と続いている。一太刀毎に体温が上昇していくのが頼光には心地よかった。
太陽が南天を過ぎて数刻、頼光はようやく太刀を鞘に戻した。数歩先にある、まだ踏み荒らしていない白いままの雪をすくい上げ、汗を拭う。表層の熱気は瞬時に奪われ、雪は雫となって流れたが、体芯の熱さはしばらくおさまりそうになかった。
日差しに暖められた空気に触れ、木々に積もった雪が大きな音を立てて落ちてくる。新たに高く盛り上がった雪の小山に身を投げ出し、閑かに目を閉じると魂が身体の束縛を離れ、拡散していくような感覚にとらわれる。
雪も大地も、人ですらも包み込み、浸み入るように、そして天地の全てと同化していくような不可思議な感覚。わずかな既視感を伴っていると感じるのは魂の記憶だからかもしれない。
本来ならば、聞こえ来るはずのない様々な音が、頼光の耳の中に届いた。子供の笑い声や牛車の車輪が軋む音、人の足音の一つ一つですら聞き分けることが出来た。
       『 貴音… 』
池の氷が澄んだ音を立てて亀裂を走らせた。早朝、陽の昇りだした頃に良く耳にする音として聞き流すこともできたが、身体が勝手に反応を示した。心の臓が鼓動を早め、体温とは全く別種の【血】が熱くなるのを感じた。過去にそのような現象を二度ほど経験している。
勇んで立ち上がった頼光は周囲を見回し、その者がいないかと探したが誰の姿も見ることは出来なかった。塀の外まで探しに行きたいと思ったが、あの秋の暴挙以来、頼光は屋敷の外へ出ることを自粛していた。
       『 貴音……音…音… 』
       『 …貴音……音……音… 』
       『 貴…音…音……音… 』
再び氷に亀裂が入る音がした。音は幾つも連なり、やがて音楽を奏でた。誘われるままに頼光は池の畔に立つと、それまで何もなかった氷の上にうっすらと人影が現れ始め、像を結んだ。
顔のほぼ中央に真一文字の刀傷のある男は、何故か今にも涙がこぼれそうな、憂いに満ちた瞳をしていた。
 ( 何がそれほど哀しいのか… )
その瞳のあまりにも悲しい色に放っておけなかった頼光は、思わず一歩踏み出し、池の中に入ってしまった。
刹那、刀傷の男は現れたと同様、閑かにその姿を薄れさせていった。
 「 頼光殿、何をされておる? 」
片足を池の中に付けたまま呆然と立ちつくしていた頼光は、晴明の声でようやく我に返った。どのくらいそうしていたのか、脚は血の色を失い、痛覚ですらほとんど失われてしまっていた。全身の熱もかなり奪われ、関節が軋んでいるように重たかった。
その後、自分がどうなったのか、頼光は意識を失ったために記憶に留めることが出来なかった。

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