-
■苦無 クナイ
-
忍者の壊器の一つ。棒型手裏剣。本来は職工の道具で、土塀や壁を切る、穴を掘るなどの用途に使われていた。武器として使用するにはかなりの訓練が必要とされる。単純に投げると回転してしまい、柄の部分が標的にあたるなどして刺さらないことが多い。
小太郎はこれを用いて、直江の持つ 鏡を奪取した。

-
■四天王 してんのう
-
四方を守る守護神。四大天王。
東に持国天 、南に増長天、西に広目天、北に多聞天(毘沙門天)。インド神話時代から護世神とされており、須弥山の中腹に住み、帝釈天に仕え、八部衆を支配。甲冑の武将の姿で表され、邪鬼を足下に四方から囲むかたちで配置される。中国・朝鮮・日本で早くから四天王の護国信仰が広まった。

-
■護法 ごほう
-
三宝を守護する仏法に帰依した神霊・鬼神の類のこと。大部分は天部に属し、勇猛な姿で甲冑を着け、刀剣を持った忿怒相に表わされる。四天王は護世神として四方を分担して守護する。
ただし、密教の高僧や修験道の行者の使役神を意味する場合もある。その場合、童子形で語られる場合が多いことから護法童子と呼ばれるが、中には羽黒山の護法のカラスのように、動物や鬼の姿をした護法もいる。

-
■四方結 しほうけつ
-
密教における「十八契印(じゅうはちげいいん)」の一つ。金剛牆(こんごうしょう)。「十八契印」は諸種の修法に通じて基本となる18種の契印のことで、修法に入る順番ごとに6種に分けられており、四方結はその中の二番目にあたる「結界法」-世界を浄めて仏法修行の浄界とする法に含まれる。

-
■二荒山神社の三本杉
ふたらさんじんじゃのさんぼんすぎ
→ex: TOURS「日光」
-
日光市山内の二荒山神社本社の御神木。
境内神苑入り口に立つ。

-
■関東大三角の呪法
かんとうだいさんかくのじゅほう
-
太陽の道と北辰の道を元にした関東地方の霊的要点三点を繋げて出来る直角三角形と、さらに富士山をからめて陣型を形成する呪法。もともとの設計は天海大僧正とされる。
この中で、日光は江戸のほぼ真北。北天とは、不動の星北極星を中心に星々が規則正しく運行するいわば宇宙の中心である。天海が主張したという東照宮を日光においた理由はここにあるとされる。江戸から見て、江戸と北極星を結ぶ宇宙の中心軸に位置する日光。ここに東照宮をおき、奉ることによって、家康を鎮護国家の守り神にしようとしたのである。

-
■魔王の種 まおうのたね
-
織田信長の霊魂によって作られた霊石。これを埋め込まれた人間は信長の意志に直接繋がれて隷属を強いられる。身体ではなく、魂魄そのものに根をはるため、無理矢理引き抜こうとすれば人格破壊を起こす。取り除くには信長自身の手によるか、または霊魂の消滅以外にはない。

-
■館山の洲崎神社
たてやまのすのさきじんじゃ
-
千葉県館山市洲崎に鎮座する神社。安房国一の宮。祭神は、太陽神の眷属であり太陽復活を祈る女神「天比理乃咲命」。社殿は太陽の沈む真西を向いて鎮座している。滝沢馬琴「南総里見八犬伝」にも登場する。

-
■静岡の久能山東照宮
しずおかのくのうさんとうしょうぐう
-
静岡県静岡市根古屋の久能山に鎮座する神社。祭神は徳川家康、相殿に豊臣秀吉、織田信長。
元和二年(1616)4月17日、家康が死去すると、遺命によってその夜の内にこの地に神祭にて葬られた。後、元和三年4月、天海が中心となり、家康の遺骸を日光山に山王一実神道により改葬。旧別格官幣社。現在の権現造の社殿(国の重要文化財)は創建当時のものである。
社殿のある場所は、元は武田の久能城があった。神殿は南南西を向いており、背後に富士山、さらにその延長線上に日光がある。

-
■富士山 ふじさん
-
山梨・静岡両県境にまたがる孤峰で、玄武岩を主とする円錐状成層火山。富士火山帯の主峰。標高3776メートル、火口直径約800メートル。傾斜は山頂部で32~35度、裾野は2~3度で、対数曲線を描く。基底の直径は東西約35キロ、南北約38キロ。宝永四年(1707)の噴火以後活動を休止した広義の活火山。日本の最高峰であり、またその美しい容姿のために、古来、日本の象徴として仰がれ、海外にもよく知られる。山頂に浅間神社があり、古くから霊峰とされ、信仰登山が盛ん。

-
■不死山 ふじさん
-
富士は不死とも。この謂れはいくつかあるが、とくに知られているのは下記の二つではないだろうか。
1)竹取物語において、月へ帰るかぐや姫が帝に不老不死の秘薬を預けるが、帝は富士山でその秘薬を焼いてしまう。帝が薬を焼くと煙が立ち、それが不二の山の煙になったという。
2)東方蓬莱の国の不死の霊山にある不老不死の霊薬を手に入れる為、秦の始皇帝から遣わされた徐福が、最後に辿り着いた場所が富士山の麓だったとされる。

-
■北辰 ほくしん
-
北天の星の意味であり、北極星の異称。また、北極星が多くの星の中心であるところから、皇居、天子をこう呼称することもある。

-
■山王一実神道 さんのういちじつしんとう
-
天台宗系神仏習合神道。天海が国家鎮護のために独自に編み出したとされる、法華経の思想にもとづく神仏融合の考え。中世の仏教神道の一つ「山王神道」の思想に基づいている。
「山王神道」において、山王とは霊山守護の神を表わし、釈迦と同義。さらに山王権現は比叡山の地主神であり日吉神社祭神の大山咋神のこと。また、天台宗においては、釈迦と天照大神は同体。天照大神と大日如来は同意議語とされる。
よって、これら二つの考えがミックスされて成立した「山王一実神道」においては、全ての融合-神仏習合が説かれている。
「山王」の持つ意味―「山」の文字も「王」の文字も三本の線とそれに交差する一本の線からできている。この形は、天台宗の三諦一実の教えそのものを表わす。
例えば、「山」の縦三本は「空仮中」、横の一本は「即一」。つまり一心三観・一念三千の象徴である。
「空仮中」を説明すれば、空とは「仏法は一切空」、仮とは「仏法は仮にある」、中とは「仏法は空でも仮でもなく不二である」。「日常の心のありのままに全宇宙と一体となることで悩みから抜け出せる」ことを意味する。
さらに「王」は「国の支配者」であることから国家鎮護の意味をも持つ。

-
■大元帥明王法 だいげんすいみょうおうほう
-
大元帥御修法。真言密教における五箇秘法(修法中、最極の秘法として普通に伝授しない5種の秘法)の一つで、鎮護国家・玉体安穏を祈る「増益法」、敵国降伏を祈願する「調伏法」と二つの効力を持つ。空海の後七日御修法に準じた大法として毎年正月に宮中で修された秘法であり、この修法を伝える真言僧侶はごく限られている。
日本への伝来は、空海の弟子の常暁によるものとされ、入唐前(後とも)の常暁が秋篠寺の井戸で大元帥明王の姿を感得したことから、この修法に用いる香水及び護摩炉の土は秋篠の物を用いる。
過去、平将門の乱・元寇、さらには大平洋戦争中の昭和19年・20年に東寺(教王護国寺)において国家を守るための調伏呪法として修せられた。また、天皇の即位大礼の当年または翌年に修せられる修法でもある。

-
■大元帥明王 だいげんすいみょうおう
-
真言密教の秘仏中の秘仏。梵名アータヴァカ。曠野鬼神の意味で林に住み子供を食い殺す悪鬼であったが、仏の教化によって明王となった。その威徳が広大であるために、明王の王、大元帥と訳される。火の神。その姿は四面八臂、四面四臂、六面六臂、十八面三十六臂など様々であるがいずれも忿怒像。
旧帝国憲法で陸海軍の統率者であった天皇を「大元帥陛下」と呼んだのはこの大元帥明王から。東密では伝統的に「たいげん」と読む。
真言
タリツ タボリツ パラボリツ シャヤンメイ シャヤンメイ タララサンタン ラエンビ ソワカ

-
■徳川家康 とくがわいえやす
-
天文十年(1542年)~元和二年(1616年)
竹千代、元信、松平元康。征夷大将軍、神号は東照大権現
江戸幕府初代将軍。父は三河国岡崎城主松平広忠、母は尾張国刈谷城主水野忠政の女於大。
6歳の時、駿府の今川義元に送られる途中で捕えられ、織田信秀、ついで今川義元の人質となるが、永禄三年(1560年)桶狭間での今川義元戦死を機に、岡崎城に帰り自立。織田信長の同盟者として信頼されるが、同じ信長の命で長男の信康を切腹させることにもなった。同九年勅許を得て松平姓を徳川に改める。駿・遠領国の支配を巡って信玄と戦うが、天正元年(1573年)信玄が没した後、武田氏を滅亡させ、信長から駿河国を与えられる。
豊臣秀吉と最初戦うが講和し、小田原攻めの後、後北条氏の故地250万石余を与えられて江戸を本城とした。慶長五年(1600年)関ヶ原の戦で石田三成らの西軍を破り天下を掌握。同八年征夷大将軍の職に任ぜられ幕府を江戸に開いた。その後、将軍の世襲制を不満とする豊臣秀頼一派を大坂冬・夏の陣で滅ぼし、天下統一に成功。太平の世を築いた戦国の最終勝利者―覇者となった。
元和二年四月に75歳で没したが、遺骸は、遺命により最初静岡県久能山に葬り、一年後に東照宮に改葬された。
長篠合戦の際、長篠城から重囲をくぐり抜けて援軍の要請に行った家臣を磔にした武田勝頼を「勝頼は大将の器ではない。自分の主君に対して忠義をつくす士を憎いといって磔にかけるということがあるか。勝頼が武運尽きて滅亡するときは、譜代恩顧の士も心変わりして敵となるであろう。」と軽蔑したという。果たして史実はこの通りになった。

-
■北条氏規 ほうじょううじのり
-
天文十四年(1545年)~慶長五年(1600年)
助五郎、左馬助、美濃守、法名は一睡。
北条氏康の五男。母・瑞渓院。伊豆韮山、相模三崎城主。
幼少期、相駿同盟の人質として母・瑞渓院の実家駿府今川家に居住。隣屋敷に後の徳川家康が住んでいたと言われ、このときの経験が、後の北条家の外交を担う人格形成の元となったことは確かである。
永禄年間、小田原に戻り、室町幕府の相伴衆となる。その後は他の兄弟と異なり、養子に入らず北条のなかで当主の右腕的に外交を中心に活躍。豊臣秀吉の小田原攻めの際には、五代目当主・氏直とともに、強硬姿勢をとる兄・氏政、氏照に反対。籠城作戦に出た兄たちに対し、徳川家康の降伏勧告を受けて韮山城を開城し、氏政、氏直に降伏をすすめた。北条氏降伏後、氏直に付き添う形で高野山へと追放されるが、後、和平交渉を担ったことが評価され、天正19年(1591年)には河内国舟南郡2000石、文禄三年(1594年)に河内国舟南、河内郡6980石を与えられる。これが近世河内狭山藩の原形となった。
慶長五年二月八日五六歳で死去。最終的に幕末まで北条の名を残した功績は大きい。
小田原攻めの末の開城の際には、切腹する兄氏政、氏照の介錯を務めたという。

-
■輪王寺 りんのうじ
→ex: TOURS「日光」
-
日光二社一寺の一つ。天台宗の門跡寺院。天平神護二年(766年)創建。開基は勝道上人。「輪王寺」の寺名は、明暦元年(1655年)に守澄法親王が輪王寺宮を称したことに由来。

-
■護摩 ごま
-
供物を火中に投じ、諸尊に供養する修法。サンスクリット語のホーマ(homa)の音写。リグヴェーダの昔から今日まで、広く行われている祭祀法。供物を祭壇の炉中に投げると、火焔となって天に昇り、天の諸神の口に達し、諸神はそれにこたえて人間の願望をかなえてくれるとの信仰に基づく。護摩法にはその目的から分類して息災、増益、調伏、敬愛の4種、鉤召を加えて5種ある。

-
■裏鬼門 うらきもん
-
鬼門(北東)と逆の方角で南西。家相において鬼門とともに忌むもの。
鬼門とは鬼が出入りし集まる方角。

-
■含満ヶ淵 がんまんがふち
→ex: TOURS「日光」
-
栃木県日光市大谷川沿いにある淵。
北岸の岩に「憾満」の意の梵字が刻まれており、弘法大師が筆を投げつけて彫ったという伝説が残る。昔は不動明王信仰の地であった。

-
■霊庇閣 れいひかく
→ex: TOURS「日光」
-
栃木県日光市日光匠町。
含満ヶ淵「憾満」梵字の対岸に位置する。晃海僧正が慈雲寺創建のときに建立した護摩壇である。現在の建物は昭和四十八(1973)年に復元されたもの。


|