-
■北陸自動車道 ほくりくじどうしゃどう
-
魚津市内を走っている高速道路。魚津市街へは魚津ICで降りる。
北陸地方日本海沿を縦貫し、総延長487キロメートル。
起点は新潟市、終点は滋賀県米原(まいはら)町。

-
■魚津市 うおづし
→ex: TOURS
-
富山県魚津市。
富山県の北東部に位置し、富山湾に臨む水産・工業都市。人口4万8316。春と冬に海上に蜃気楼が出現する。

-
■蜃気楼 しんきろう
→ex: TOURS「魚津の蜃気楼」
-
蜃(大蛤)が"気"を吐き楼閣を描くとされたことから「蜃気楼」と呼ばれる。
物体の見える方向が、大気の温度の密度差や、光の異常屈折により、実際の方向とはズレて見られる現象。海上や砂漠で起こる。海市。

-
■上杉夜叉衆 うえすぎやしゃしゅう
-
上杉景虎、直江信綱、柿崎晴家、色部勝長、安田長秀の5人。
軍神・上杉謙信の命を受け、景虎が率いる冥界上杉軍の行動部隊。霊界に霊を送る調伏力が使える。

-
■小田原 おだわら
→ex: 北条
-
神奈川県小田原市。
神奈川県の南西部にある人口20万0103の都市。気候は温暖、冬暖夏冷。湘南保養地域の西端をなす。
北条早雲を創始とする後北条氏の本拠地であり、同家本城の小田原城がある。江戸時代には宿場町として栄えた。

-
■伊達政宗 だてまさむね
→ex: 伊達小次郎
→ex: 片倉小十郎景綱
-
永禄十年(1567)~寛永十三年(1636)
永禄十年(1567)八月三日、米沢城に生まれる。父米沢城主伊達輝宗、母最上義守の女義姫。正室は田村清顕女愛姫。奥州の名将であり名政治家。その容貌から独眼竜の異名を持つ。
幼名梵天丸。梵天とは修験道で幣束(へいそく)のことをいう。通称藤次郎。陸奥守。権中納言。血液型B型。仙台藩祖。幼時に疱瘡にかかり右目を失明。1577年元服して藤次郎政宗と称す。84年父輝宗の奇禍により家督を相続。89年蘆名氏を破り会津を掌握、南奥州の覇者となる。その後、現在の福島県の大半と米沢地方および宮城県にわたる大領土を築いたが、小田原征伐への参陣が遅れたことより、90年豊臣秀吉により会津などを没収された。
長女の五郎八(いろは)姫を家康の子・忠輝に嫁がせ徳川家と姻戚関係を結ぶ。また、南蛮貿易を企図し家臣支倉常長をスペインに派遣した。
寛永13(1636)年5月24日、江戸桜田藩邸にて死去 享年70才。死因は腹膜炎性の胃ガン。戒名「瑞巌寺殿貞山禅利大居士」。肖像画を画くときには必ず両眼を開いた状態で描くように命じていたと言われる。

-
■片倉小十郎景綱 かたくらこじゅうろうかげつな
→ex: 伊達政宗
-
弘治三年(1557)~元和元年(1615)
伊達輝宗・政宗二代に仕えた重臣。姉の於喜多は梵天丸の乳母として政宗の人間形成に多大な影響を与えた。初名小十郎、通称備中。伊達家の総参謀長。白石城主。行政能力にも優れた知勇兼備の名将。上杉の直江兼続とともに天下の二大陪臣といわれる。
政宗より10才年上であり、政宗にとっては、家臣である以前に兄のような存在だったと思われる。梵天丸が疱瘡を患った際、他者が触れようとしない飛び出した右目を「そのように飛び出した状態では敵の手につかまれたら大変です」と小刀で切り取ったという。また、その手腕は政宗だけでなく、秀吉や家康からも高く評価されるが、一生かけて政宗への絶対なる忠誠心を貫いた。享年59歳。その死際には六名の殉死者を出したという。

-
■
鏡 つつがきょう
-
日光東照宮唐門の奥の拝殿に祀られていた家康の秘宝。
姿を映した者の魂を吸い、鏡の中に封じ込めるという魔鏡。

-
■魚津城 うおづじょう
-
天正10年(1582)5月の魚津城の戦いにおいて落城した上杉方の城。上杉の能登侵攻の拠点。越中の対織田前線基地でもあった。
魚津城に籠城する上杉・武田軍の連合軍は4千。対する織田軍の兵は4万余りに及んだといわれている。上杉景勝は8千の兵を率いて救援に向うが、救出ならず5月末に春日山城に帰城。3ヶ月の激戦の末、同6月3日、城将13人は切腹の後、落城。
前日の6月2日、本能寺において信長が暗殺されたため、4日には織田軍は全軍が引き上げた。

-
■一向宗 いっこうしゅう
-
浄土真宗。
親鸞(1173―1262)によって開かれた仏教の一派。
南無阿弥陀仏と称える称名念仏の実践において、つねに清浄土の実現を願い、無我・平等・大慈悲心のあふれる現実生活を開拓することを説く教えである。
戦国時代、一向宗門徒らによる武力蜂起は、当時の武将達から恐れられた。浄土真宗本願寺の第十一代法主である光佐(顕如)は戦国時代を代表する宗教謀略家と言われる。

-
■明智光秀 あけちみつひで
→ex: 織田信長
→ex: 本能寺の変
-
亨禄元年?(1528年?)~天正十年(1582年)
足利義昭(覚慶・義秋)・織田信長の家臣。惟任・十兵衛・日向守。妻は妻木範煕の女。細川ガラシャは娘。
美濃土岐氏の出身。織田随一の智将で、惟任(これとう)姓を賜る。1582年(天正十年)6月2日、謀反を起こし、本能寺において信長を自刃させた。報を聞き駆けつけた羽柴秀吉と戦い大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中、小栗栖で土民の槍にかかり13日夜落命。

-
■上杉十三将 うえすぎじゅうさんしょう
→ex: 魚津城
-
魚津城落城の際に自害した上杉方の将。

-
■本能寺の変 ほんのうじのへん
→ex: 明智光秀
-
天正10年(1582)6月2日、明智光秀が謀反を起こし、京都本能寺において主君織田信長を襲い、自害させた事件。

-
■数珠 じゅず
-
仏教徒の法具。珠の数は108つ。54のもの(半連の数珠)、36、27(四半連)、18、42、21、14のものも。
持ち方は派によっても師匠によっても異なる。二つの母珠をあやとりのように左右の中指に通し(浄名のついた母珠を右)、房を外側にたらす。自分のための行の際は、房を掌中に入れる。また、摺り合わせることも。真言宗では特に大切にする。
「数珠とは珠の数を連ぬくなり。珠とは我等が心性の珠なり。数とは我等が煩悩の数なり。ゆえに珠を研きぬれば、光あらわる。煩悩を研けば、たちまち成仏す。」

-
■飯富 おぶ
→ex: 武田信玄
-
武田信玄家臣、飯富虎昌のこと。
?~永禄八年(1565年)。兵部少輔。譜代家老衆。信濃佐久郡山内城主。河内郷飫富郷の土豪で武田信虎・武田信玄の二代に渡って使えた。「武田二十四将」の一人。甲斐の赤備え部隊を指揮し「甲山の猛虎」と畏れられた宿将。
永禄8年(1565年)8月信玄の嫡男義信が謀反を企て、それに連座、自殺した。

-
■北条 ほうじょう
→ex: 北条氏康
→ex: 北条幻庵
-
小田原北条氏(後北条氏)のこと。
北条氏康、北条幻庵の項参照。

-
■「武田家の養子」 たけだけのようし
→ex: 上杉景虎
-
第四話上杉景虎の項参照。

-
■伊達小次郎 だてこじろう
→ex: 伊達政宗
-
天正五年(1577)~天正十八年(1590)
伊達政宗の弟。幼名竺丸。父伊達輝宗、母義姫。
1590年四月五日母保春院に毒を盛られた政宗は一命を取り留めたが、母を成敗するわけにもいかず、四月七日弟小次郎を斬殺した。享年13歳。保春院は実家である最上家へ逃亡。この計画の裏には、伊達家を乗っ取ろうとするお義の兄最上義光の入知恵があったとされる。以前から小次郎を伊達家当主とする家臣達が裏で画策をしており、伊達家分裂のおそれがあるのを政宗は気付き、危惧していた。

-
■鮫ヶ尾城 さめがおじょう
→ex: 上杉景虎
-
新潟県新井市宮内。
上杉謙信の時代、春日山城の支城群の一城で、信濃方面への抑えとして築いた山城。春日山城の前衛。本丸からは春日山城も望める。標高183m。
上杉景虎が、御館の乱に敗れ、関東に逃れる途中、城主堀江宗親に裏切られここで自害した。城跡から出土する焼け米はこの戦いで兵火にかかった米蔵のものである。


|