「御白より 三出で給う 蒼御霊 央に寄りて 響く神鳴り」
指を打ち鳴らし呪を詠う晴明を、経基はまるで聖者のように見つめた。神々しいという言葉すら霞んでしまいそうなほど強烈で圧倒的な力を晴明から感じ取っていた。
     『羽鎮…羽鎮……羽鎮…』
旋律が流れ、空気を振るわすと経基の目にも、見えない何かが見える気がした。実際に見えているわけではないが、気配とでも言うのか、確実にそこに何かがいることだけは経基にも感じられるのだ。肌が泡立つのは魂を揺さぶる恐怖と未知の領域への興奮が経基を包んでいるからに他ならない。
晴明は振り返りもせずに洛外へと向かった。もう何年もそうしてきたかのように経基は黙って、あくまでも自然に晴明の後を追う。そこには主従関係も、まして信頼関係もなく、ただ互いの打算のみがあった。
時を同じくして、頼子は晴明の到来に気付いた。俗に式神とも幽体離脱とも呼ばれる感覚肥大能力で頼子の居場所を突き止めた晴明は、逆に頼子に次の行動を報せることとなった。勿論、晴明自身、その危険を知った上での行動だ。
 「はん、たかが呪い師風情が我を討とうというのか。笑止なこと」
もとより白磁が如く透き通った肌ではあったが、今や一滴の血すら通わぬ無機質な輝きを放っていた。目尻に粋と引いた紅が頼子の愛らしさを妖艶に変え、鬼女も斯くやと思しき陰惨な美しさを導いていた。
頼子の身につける女房装束に炊き込まれた香の、重く、甘く、濃密な臭気が湿った堂内の空気に紛れ込み、そこにいる者全てを狂わせていく。
 「我の恨みの前に立ち塞がる者は何人たりと生かしおくものかっ。雷に撃たれ、焼け死ぬがいいわっ」
頼子が右手を高く掲げると堂の外に控えた者達が一斉に足を踏みならし始めた。
      『段っ…段っ…段っ………段っ…段っ…段っ……』
      『紗庵…紗庵…紗庵………紗庵…紗庵…紗庵……』
      『段っ…段っ………段っ…段っ…段っ……段っ……』
      『紗庵…紗庵………紗庵…紗庵…紗庵……紗庵……』
地面を踏みしめる音と金冠の打ち鳴る音とが混ざり合い、戦意を高揚させていく。単純な旋律だからこそ、人は暗示にかかりやすく、複数人の意識を容易に統合していける。
わずかではあったが、個人差のあった旋律が徐々に重なり、一つの巨大な音となっていく。それに連れて頼子の裡に潜む魔は、己の理性の箍が軋んでいるのを感じた。
 「ったく、つくづく騒がしい連中だな…雉も鳴かずば撃たれまいに…」
晴明の声など、距離的に聞こえるはずもなかった。しかも、頼子の僕が大音量で戦意を高揚させていては隣り合わせの晴明と経基でも会話が成り立たないほどだ。それでも堂外にいる僕は一斉に足を止め、寸分違わぬ動きで土手の上に立つ晴明と経基に振り向いた。その動きに経基はこの世ならざる恐怖を感じた。
 「経基殿、この先は常世なれば、ついて来られぬが賢明。力無き好奇心は身の破滅どころか、私にとっても迷惑にございます」
晴明は頼子の許に向かう。経基を残し、唯一人で。優しさでも厳しさでもなく、あるがままの事実のみで導き出した結論のままに。

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