MIRAGE OF BLAZE ENCYCLOPEDIA
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words @ STORY#9
恙  つつが
 →ex: 恙
 →ex: TOURS「唐門」
獅子に似た、虎、豹、人を食べる霊獣。
日光東照宮唐門の屋根上正面・背面に鎮座する昼の守りの恙は、実は唐獅子とするのが正しいとも。
この唐門の上の恙は足を鎖で繋がれているが、これは屋根に固定するための金具である。

世に言われる言葉「つつがなし」は、この獣がおらず、病気・災難もなく平和に日を送ることをいうが、一説に、後漢時代の書物『風俗通義』の「恙(つつが)は人を嚼む虫なり。善く人の心を嚼み、人、毎に之に患苦す」に由来するとも。「つつが虫」はケダニの幼虫で、日本では東北地方に多く発生する伝染病の病原菌のことである。
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二荒山神社 ふたらさんじんじゃ
 →ex: TOURS「二荒山神社」
日光東照宮の西に位置する日光最古の建造物。二社一寺の一つ。東照宮一ノ鳥居とは上神道、下神道で結ばれる。元和五年(1619年)の創建で、開祖は勝道上人。男体山山頂に奥宮がある。祭神は大巳貴命。
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輪王寺 りんのうじ
 →ex: TOURS「輪王寺」
天台宗の門跡寺院。天平神護二年(766年)創建。開基は勝道上人。比叡山延暦寺、東叡山寛永寺と並ぶ天台宗三山の一つ。
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天海僧正 てんかいそうじょう
天文五?年~寛永二十年(1536?~1643)
家康、秀忠、家光の徳川三代の将軍に仕え、日光東照宮の造営に深い影響を与えた人物。
陸奥国会津郡高田にて生誕、蘆名氏の支族三浦氏出身とされる。幼名蘆名兵太郎。号は南光坊・智楽院。諡号慈眼大師。 江戸期の日光山貫主。川越・喜多院二十七世住職。11歳で薙髪受戒して台密の学を学ぶ。永禄年間(1558~69)甲斐国武田氏の寓客となるが、後、1608(慶長十三年)徳川家康に招かれて駿府に行き帰依。山王一実神道が家康の信任を深める。その後、1624(寛永一年)徳川秀忠の命により江戸上野の忍ヶ岡に江戸城の東北の守護として東叡山寛永寺を創建。非常な長命で行年108歳とも134歳とも。豆を常食としていたといわれる。

 <天海遺訓>
気はながく  勤めはかたく 色うすく 食ほそうして 心ひろかれ

真偽の程は定かではないが、一説に、本能寺で織田信長を討った明智光秀が後に天海僧正になったとも。日光に明智の名(明智平など)が残っているのはその為という。
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箱根 はこね
神奈川県足柄下郡箱根町。神奈川県南西部から静岡県東端にかけて広がる富士箱根伊豆国立公園の中核部。複式火山の典型を成す。山・湖・渓谷と深い緑の景観に富み、温泉の湧出量が多い。古代から山岳信仰の霊地、日光と並ぶ修験道の行場とされた。東海道が通っているため、関所など縁の史跡が数多く残されている。国際観光地としてもよく知られており、海外では日本研究の拠点として名高い。
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北条氏照 ほうじょううじてる
 →ex: 北条氏康
天文九年?~天正十八年(1540年?~1590年) ※生年は一説に1541年とも
源三・陸奥守・武蔵滝山・八王子・下野栗橋・下野小山祇園城主。
北条氏康の次男(実際は三男であるが長男新九郎は早世)。武蔵滝山城主大石定久の養子となり、大石源三或いは由比源三と称す。弟氏邦と共に「越相一和(越相同盟)」締結時に活躍。天正年間(1573年~1592年)北条氏の北関東進出を主導する役割を果たす。天正六年(1578年)九月、御館の乱において、弟三郎景虎の援助に氏邦と共に向かったが叶わなかった。天正十六年(1588年)八王子城に移る。
豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田原城に籠城して竹浦口を守るが、天正十八年開城。氏直の助命と引換えに兄氏政と共に7月11日侍医田村安斎宅で自刃。
政治的地位として、当主に一番近く、実際、受領名「陸奥守」は当主の「相模守」の次の地位を表わしている。

北条氏康の息子の中でも、兄弟中最も血気盛んであり、築城術、戦術、外交手腕に優れていた反面、茶道・香道を嗜み、笛の名手でもある文武両道の人であった。生活において当時珍しかった明の磁器を多く使用し、それらは現在居城八王子城趾より多数出土している。

戒名・青雲院殿透岳開公大禅定門。
辞世の句:
天地あめつちの清きなかより生れ来てもとのすみかに帰るべらなり
吹きと吹く風な恨みそ春の花もみぢの残る秋あらばこそ
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相模の北条一族 さがみのほうじょういちぞく
 →ex: 北条氏康
関東の戦国大名。鎌倉期の北条氏に対し俗に後北条氏とも。小田原城を本城としたため小田原北条氏とも呼ばれる。
明応四年(1495年)今川氏に仕えていた伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)が小田原城を攻略、相模に進出したのが発端。次代氏綱のとき北条氏を名のる。氏康・氏政・氏直と五代、一世紀もの間続き、常陸、安房、下野北部を除く関東に支配を広げた。1590年秀吉の大軍に攻められ滅亡。
相模は律令体制によって設けられた旧国名で、現在の神奈川県の大部分にあたる。
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風魔の一族 ふうまのいちぞく
北条家に仕えた*乱破集団。相州乱破。頭領は代々、風魔小太郎を襲名。二百人を擁する部隊を強盗、窃盗、山賊、海賊とそれぞれの専門技術別に分けて暗躍。その戦術は、ゲリラ戦法を主とし、諜報、謀略、流言、偵察、奇襲、放火、掠奪を得意とした。武田勝頼との闘いで見事なゲリラ戦を演じたのは彼等だったという。
出目は、山窩の、もしくは古い時代に渡来帰化した異民族の系譜であると言われ、同じ忍であっても伊賀・甲賀などの系統とは全く異なっている。
呼称の由来は、その疾風のごとき出没ぶりからとも、風間谷(風間村。現在の神奈川県足柄郡風祭周辺。小田原の西、箱根との境に位置する)に住みついていた為とも言われる。
北条滅亡後、江戸へ移り、盗賊集団として悪名を轟かせたとされるが定かではない。
(*乱破=忍びの者。関東では乱破、甲斐以西では透破と呼ばれた)
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相模の海 さがみのうみ
神奈川県西部の真鶴岬と三浦半島南端(城ヶ島)を結ぶ線より北の海域。相模湾。湾東部の全域がアジ・サバ釣りや延縄の好漁場となっている。また、湾西部に存在する深さ1000~1200mの海渠は相模トラフによるもので、フィリピン海プレートとユーラシアプレートが接触する場所。1923年(大正12)関東大地震はここで発生したものと考えられ、同大地震の際に海底沈下現象を引き起こした。
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