獣道一直線
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<危機感&既視感>

大畑 『定光』のコンテを描いてると、「前にこんなの描いた気がするな」って感じることが結構あるね。「『M.D.ガイスト』だったかな、『サイガード』だったかな」みたいな。テレビ用の作品で、なおかつ漫画原作ものをやってて、そういう感覚に陥るっていうのは、ある種感慨深いものがあるよね。80年代に僕がやったあの辺の作品っていうは、その当時放映されてたり制作されてたものに対するアンチテーゼがすごくあったんです。画の作り方やアイディアも、「こんなのはテレビじゃ見られないだろう」とか、「こんなことはあの作家はやらないだろう」とかいうことを念頭に置いて考えてた。普通じゃやらないこと、できないことをやる。まずそれを主目的として作ってたとこがあるわけですよ。

──昔っから野獣だったんですね(笑)。

大畑 だけど、80年代のテレビアニメっていうのは、漫画原作ものが圧倒的に多かったでしょう。アニメーションを見る側も、アニメの現場サイドやクリエイターサイドから出てくるものには、あんまり期待をかけられないような時代だったんですよ。お茶の間で歓迎されるもの、予定通りの展開になって、誰でも安心して見られるものばかりだった。テレビというのは、ものすごくパターン化してるし、誰にでもわかりやすく作り上げられた、そのパターンの中で喜んでるファン層は多い。それは事実としてある。プロレスで言えば、悪い外人力道山空手チョップで倒したみたいなさ。日本人がやられてると必ず力道山が助けて、間に入って外人をやっつけてとかさ。そういう、国民が非常に熱狂した頃のわかりやすさ、そういうものの方がマクロのお客さんを獲得できる。でも、中にはそれを裏切って欲しいという、予期しない展開を望んでいる、ちょっと普通じゃ満足できない“フリーク”と呼ばれる人たちがいるわけ。いわゆるオタク文化のはしりですけど。僕は元々、普通ものじゃ満足できなくなっちゃった人が、色んなものを集めたり、変なものに手を出したりするのはあって当然だと思うんですよ。単に人と協調できないとか、引きこもりがどうのとか、物を集めたりしてる連中とかがオタクみたいに言われてるけど、それは間違ってる。まず“普通”レベルのものを全部クリアして、その上で満足できなくなっちゃってからマニアックに走る。それが本当のオタクだと、僕は思うんですよ。

──基礎を身につけずに、いきなりマニアックなとこだけこだわって見せても、それは本当のオタクではないと。

大畑 80年代は、おニャン子ブームなんかもあって、アニメ自体がヌルかった時代だった。主人公がロボットに乗って戦うことの意味よりも、主人公の等身大の恋の行方が気になるとかね。もう、小さな幸福を手に入れることが彼らの目標なんだよ、みたいな。スケールはでっかいんだけど夢はちっこいアニメが多かったような気がするんだよ。おまけに、スポンサーは「オモチャが売れればいい」、アニメの現場は「どうせ子供しか見ないし、こんなもの作ったって評価されないし」みたいな、どこか冷めてるようなところがあって。僕はこの頃、ロボットアニメの仕事をいくつかやってるわけだけど、そういう現状にすごく危機感があったんです。物語として、アニメーションフィルムとしての、スケール感とか魅力とかいうものが、どんどん失われていっちゃうような気がしてた。僕らの世代っていうのは、『マジンガーZ』や『ガンダム』や『ヤマト』で燃えた世代なんですよ。だから何が面白かったかっていうのが、心に刻み込まれてる。でもこのままだと、そういう燃える作品を作らせてもらえる機会が、自分たちには回って来ないんじゃないか。ヌルい作品、ちっこい作品、フツーの作品ばかり作って、このまま終わっちゃうんじゃないかという危機感が、すごく大きかった。一種、強烈なカウンターを一発浴びせないと、この業界は目が覚めないじゃないかという強烈な思いが、誇大妄想的に膨らんでまったわけです。

──そこで『M.D.ガイスト』、『サイガード』なわけですね。

大畑 そう。ああした一連のSFバイオレンスアクションアニメみたいなジャンルの中で、僕がこだわったのは、このオレの叫びを届かせたかったってことなんですよ。少なくとも普通じゃ満足できないという人たちにね。それで、その叫びを受け止めた人が応えて、共闘してくれればいいなと思ったんです。その当時、自分が孤軍奮闘して作ってた頃のカット割りだとか、編集だとかアイディアだとかいうものがあるよね。あれから10年以上たってるわけだけど、今のテレビや漫画を見ると、それを普通にやっちゃってるんですよ。非常にビデオアニメっぽいというか、もうマニアックな世界に普通に来ちゃってる。その頃は、これやっちゃイカン、あれやっちゃイカンと御法度が多かったのが、今は何でも許されちゃう。

──叫んだ甲斐があったじゃないですか。

大畑 いや、逆に『定光』っていうのは、そんな風にはまったく考えてない作品なんですよ。テレビだし、原作ものだしね。それなのに、今まで僕が作ってきたものとすごく同調するようなシチュエーションが、最初からできちゃってる。「前にこういうレイアウトでやった気がする」「前にこんなポーズをとらせたような気がする」というような、一種、自分自身の作品のパロディをやっているような、妙な気分になることがありますね。でも見回すと、『サイガード』を中・高校生で見た人が、成人してからアニメの現場に入って、僕と一緒に仕事をやってるんですよ。もちろん、彼らはある種の偶然でもって、僕と組むことになったり、現場を担当してくれることになったりしただけです。でもやっぱり、僕の作品を通じて入り込んだものが、彼らの中にあるわけ。そういう共通性というか、類似性みたいなものって、継承されていくんじゃないかと思うんですよね。だから、『定光』の漫画が、僕にとって割と違和感がなかったのも、その辺りの部分かなと思うんです。80年代からずっと映像文化、アニメーション・漫画・キャラクター文化に触れてきた世代の中での類似性。普通のもの以上に、普通じゃないものに何かを求めた、マニアックなモノに走っていった真のオタク。そういう人たちが作り出したものが、自分の考えと共通してたんじゃないかと。そういう風には思いましたね。

──とはいえ、テレビということで、制約も多かったのでは?

大畑 そりゃあね。特にバイオレンス描写に限らず、テレビというのは不特定多数の、いわゆる大衆を相手にするものだという考え方があるからね。例えば、テレビドラマに対して、映画を“本編”と呼ぶ。それと同じように、テレビアニメーションをやっている制作現場とか、スタッフの人たちとか、プロデューサー、演出も含めて、「ビデオはマスターベーションだろ」っていう、ちょっと差別的な言い方があったんですよ。要するに「ビデオのアニメーションをやったぐらいじゃ一人前とは言わねぇぞ」みたいなね。「言わせねぇぞ」と「オレたちの砦は崩れねぇぞ」みたいな意識があって。やっぱり、表現の手段は変わって来ますよ。ビデオとはね。

──でも、結構やっちゃってますよね。ぶっ裂いた流刑体の●●●が飛び散ったり、露出した●●にグチュッと手ぇ突っ込んだり、ドロドロの●●がボタボタしたたったり……

大畑 あ~(苦笑)。どうしても出てしまうんですよね。自分では抑えてるつもりなんだけど(笑)。

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