獣道一直線
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<野獣の流儀>

──神代の制服が、原作ではブレザーなのに、アニメーションではセーラー服に変更されていますね。これには何か深い意味が?

大畑 このインタビューが掲載されるのって、第4話の放映より前?

──後になると思いますが、ビデオで初めて見るっていう方も多いかと。

大畑 まあ要するに、第4話がセーラー服じゃないと成立しない話だったんですよ。見た人は、「そういうアイディアだったのか」ってわかると思います。初登場の第3話ではブレザーです。転校生なので、前の学校の制服ってことで。

──ネットなんかでは、賛否両論あるみたいですよ。

大畑 そうなの? たしかに、ファンというのは、そういうこだわりがあるからこそ、色々面白いことを考えたり想像したりするんだろうけど。ただ、瑣末的なことをほじくるようになった時代というのが、悲しいなと思うんですよ。そういうところにしかエネルギーを費やせなくなってるような気がするね。

──ああ、いつのまにか逆転しちゃってる。「オレたちはこんな細かいところまで見てるぜ」ってことを自慢してたはずが、実はそこしか見てないなかったというような。

大畑 原作漫画の中でも、定光というキャラクターは、そんな瑣末なことにこだわるような男じゃないわけですよ。受け止め方がどうであっても、それは本人の自由だけどね。作り手が求めてること、主人公に託しているメッセージを、漫画の読者がどこまで真剣に受け止めてるんだろうかって、心配になるよ。それは漫画だけじゃなくて、歌でも映画でもみんなそうなんだけどさ。例えば、いわゆる元気ソングとか、応援ソングとかいうのは、聴いた人に元気になって欲しいから歌うんでしょ。「それで元気なんて出るわけねえじゃん」って言いながら聴く人は、やっぱりおかしいよね。それが一瞬の儚いものであっても、現実的じゃない考えであっても、「そうであって欲しい!」という理想を歌ってるんだし、アニメーションやドラマであれば、お話で見せてるわけで。そこのところを、素直に受け止めることができなくなっちゃったっていうのは、こういうジャンルの中にある、マズイ部分というんですかね。「どうせ絵空事なんだし」っていう、一種冷めた部分。それが、インターネットだとか、便利な道具を手に入れたことによって、噴き出してきちゃったのかもしれないなと思うよ。

──もちろん、ちゃんと受け止めてくれている観客もいるわけですが、そういう人はわざわざネットに書いたりしないですからね。

大畑 60年代のフォークソングブームにしろ、ニューミュージックの頃にしろ、作り手側のメッセージを、まだ受け手が真剣に受け止めて、考えていた頃があったんですよ。それはやっぱりATGの映画もそうだし、松竹ヌーベルバーグって呼ばれた頃の一連の作品とかもそうだった。特撮ドラマも『スペクトルマン』くらいまでは、「なんでこんな作品を作ったんだろう」とか、「なんでこんな作品が存在するんだろう」とか、ガキンチョはガキンチョなりに、若い連中は若い連中なりに、大人は大人なりに考えて受け止めたんです。今は、考えること自体がおっくうになっちゃって、見た目でパッとわかりやすく、見心地・聴き心地・触り心地だけがいいものにばかりに走ってる。想像力が低いよね。『ヤマト』や『ガンダム』のネタで、喫茶店で夜通し真剣に語ってる、良い意味でのバカっていうのは、自分の細胞のひとつひとつを、全部奮い立たせることができたわけですよ。語る題材にもよるんだけど、語ることのできる何かがあったと思うんですよね。単純に個人で楽しむ以上に、誰かに語りたいとか伝えたいとか思う、聞き手が聞きたいと思うメッセージが作品にあったから、そういう厚みのある作品だったから語ったわけで、厚みのない作品じゃ語れないでしょ。

──端っこの薄っぺらなトコをカリカリやってないで、真ん中の分厚いトコにガブッと来いと。

大畑 『定光』にどれだけそういう厚みがあるのかとか、メッセージがあるのかっていう問題じゃなくてさ。ま、単純に、普通に物を見たとき、感じたときの、自分の中の“楽しむ”っていう感覚ですかね。で、楽しめなかったら、なぜ楽しめなかったのかくらい、わかるはずだよね。そういう、自分の中に事実としてある感覚以前に、「原作漫画と同じじゃないから」みたいな、“踏み絵”的な考え方っていうのは、どうかと思うわけですよ。じゃあ、原作どおりに作ってたら万事OKなのかというと、ある一部の人間は納得したかもしれない。でも、納得しない人もやっぱり出る。どっちに転んだって、絶対出るんです。だから、モノを作ってる人間は、受け手ひとりひとりと直接対話するとか、話をするっていうのは不可能だし、そうすべきじゃないと思う。問題は、作品を作り続けることができるだけのモチベーションを、僕自身が固められるかどうかってことです。それが一番大事ですよ。たとえ原作どおりに作っても、僕のモチベーションが低い作品は、受けないと思うんですよね。原作がどうこうという以前に、アニメーション作品として受けない。単に「『破壊魔定光』がアニメーションになったよ」っていう事実が残るだけでさ。監督っていうのは、言っちゃえば“船長”の役目なんですよね。自分が船長として船の舵取り役を任された。大した目標物もないような場所に行って、「こっちに進んだ方がいいんじゃねえか」とか、自分の経験と知識を頼りにして、船に乗っている人たちの命を預かっていくんだと。嵐にあって難破しちゃったら、やっぱり「船長が悪いんだよ」ってことになるし、無事に荷を送り届けたら、また次の航海に出ることができる。だから、依頼された仕事をかっちりこなすのも、そりゃあ船長の大事な役目ですよ。でも、何の目標物もない無地のキャンバスに、自分の航海の軌跡を描いてゆく楽しさってあると思うんです。だだっ広い海の上で、この開放感の中から自分がどっちに進んで行こうかって考える楽しさ。これは船長でなきゃ味わえない楽しみだよね。監督もそういうところがあると思う。それが僕の、先へ進んで行こうというモチベーションの、一番大きい理由かな。

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